2006年10月

自由さとまじめさ(つづき2)

 「直観」と「分析」の話がつづきます。
 ペンによる線描がおちいりやすいことの一つは、線に慣れが出るということです。達者にペンが動くようになると、一本の線に込める気持ちがおろそかになります。
 慣れた線が集まった絵は、上手に見えるけれど、どこか落ち着きがなく、鮮度に欠け、俗臭を放つようになるのです。
 そんな気配がしたとき、私は全紙などなるべく大きな紙に描くようにしています。
 紙が大きいと、ペンの描き込みは否応なく細かくなります。細かく描いていくと必ず、立体感や遠近感が必要になるものです。一本の木も描き込んでいけば葉の繁み具合や影を丁寧に描き込まざるをえなくなります。そうしたくもなりますね。
 ここで「自由さ」から「まじめさ」または「直観」から「分析」への自然な移行というか展開が行われるということです。
 慣れた線ではたち行かなくなり、線も身を正し直すというわけです。
 
 ところで前回は、こうした「直観」から「分析」への移行はありうるしあった方がいいのだが、その逆のケースはありえないといいました。
 ところが私もいろいろ調べてみたのですが、絵画の歴史の中にたった一つだけ(だと思う)例外的に逆のケースを成功させた例があることを知りました。
 これは「分析」的にデッサンからまじめに絵を始めてしまった人にとっての朗報ではないかと思われます。
 ヒントだけいいます。
 これは超まじめに少年時代からデッサンを続けてリアルな絵を描いていたピカソが、27歳のとき、突然「自由」を求めたのか、あの「アヴィニヨンの娘たち」を描いて、その後の新しいピカソに展開したという例です。
 その話はいずれまた……。 絵を描きながら、自らの問題として、よくよく考えていっていいことかと思うのですが、如何でしょうか?

「夕暮れの安曇野」(アルシュ 61cm×46cm)
 レンタサイクルで、描く場所を探すうち、ここが気に入ったので土手の草むらに座って描き始めました。
 白壁の蔵の屋根の横線からスタートです。
 陽が沈みかけたとき、遠くの山が美しい紫色に変わったのが目にやきついたため、その感じで色を塗っていきました。
これが線描です。使ったペンは「リブ」と「筆サイン極細」の2本。

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