|
絵は「観察力」で描く
こんなにたくさんの人が来てくれて、選挙のようですね。(笑)
僕は何冊か本を出していますが、その読者カードの中に、「あなたの絵についてはわかったが、絵の描き方を具体的に書いたものがない。今度はぜひそういう本を書いてほしい」というのがありました。そこで今度出しましたのが「永沢まことのとっておきスケッチ上達術」(草思社)です。
こういうスケッチ風の絵を描いてきてから、自分の絵の描き方がそれ以前と根本的に変わってしまったという感想があります。絵の描き方についてあまりにも遠回りをしていたのです。
一般に人は何でも「学んでやっていく」のが身についています。自分の持っているものを出す努力をせず、情報(理論)を吸収して、その覚えたものだけを出しながら年を取って死んでいく。私たち誰でもが持っているそういうメカニズムの不自然さに、絵を描き出すと気がつくのです。そのことをきょうはお話したい。
絵はだれにでも描けます。絵の道具を買ってきて、絵を描き始め、とにかく自分の一番興味のあるもので描けばいいのです。
絵を描く才能というのは、描く力ではなく、実は見る力であると考えます。つまり「観察力」こそが基本的才能なのです。
今は科学万能に侵されている。見るというのは、目は遠いところ(たとえば遠くにある建物の塔)まで気持ちが飛んでいきます。これが常識であり、実感です。
ところが、科学の教育は、飛んでいくのではなく、「光が向こうから来て、脳の中枢神経に伝わり、それが『見えた』という意識になる」という考え方をします。
音もそうです。私たちの聴覚は1キロ先の爆発音もとらえ、聞き取りますが、科学では「爆発音は向こうから音波として脳中枢に届き、それが意識に変わる」と言っています。
形を計測する。形をとらえる。それにはものを「面」でとらえ、影をつける。これが石膏デッサンです。見たものをすぐ描かなくて、脳にインプットして、計量化してあらわす。あらゆる科学がそうです。絵という人間の心にかかわるものにまで科学を取り入れた。それが石膏デッサンです。
音楽でも、音譜でとらえてピアノを弾く。全部データ化する。誰もがそういうものだと思い込んでいます。
石膏デッサンを始めると、絵が嫌いになるのは当然です。昔から偉い画家も石膏デッサンが嫌いだった。マネもそう言っていますね。石膏デッサンを生んだ科学的合理主義も、たかだか500年前に生まれた宗教のようなものと考えたらいいのです。
絵描きの王道へ進むためにはデッサンが必要になるので、好きなように描きたい人や、アカデミズムを嫌う人は、漫画とかイラストレーションなどの世界に入っていくのです。
今どき画家は油絵でバラの絵や美人画などを描いても売れないので、学校の(美術の)先生になるしかない。絵を描ける人材は、ほかの職業に行くか、絵をあきらめるか、漫画家かアニメーターあるいはイラストレーターなどになってしまうというわけです。
私も絵を描く仕事をしたかったのですが、どうしたらいいかわからない。美術学校に行くとすれば予備校で石膏デッサンを習わなければならない。だから、美術学校には行かずに、アニメーターの世界に入りました。もともと私は「見たもの」を描きたかった。花が好きだったら花を描く、猫が好きだったら猫を描くというように。
ところがアニメーションは決まったキャラクターを描かなければならない。「これは僕の描きたい絵じゃない。何か違う」と思いました。「漫画線」が自分に合わなかったのです。
漫画とかアニメは見て描くのではない。一番重要なのはストーリーなんです。絵はそれに貢献するように作られています。勝手に絵を描いてはだめなんです。作画監督が決めたキャラクターとそっくりに描けなければダメです。
自分が好きなことをやるのだったら、似たようなことをやるよりも、全然違うことをやったほうがまし。似たようなことをするのはかえって残酷。どんな職業でもそうですね。
生きていて最も大事なのは、やりたいことをやるということです。それがどうも違う。大事なものが置き去りにされていく。死ぬのが怖いのは、やりたいことをやれなかったためではないか。好きなことをやっていたら、死ぬのがそんなに怖くなくなって、「好きなことをやったんだから、もうこの辺で死んでもいいか」という感じになるのではないでしょうか。食おうと思った饅頭を食わないままでいるから、死んじゃうのが怖くなる。(笑)
既成概念ではなく体で描く
そういう世の中の既成概念があることを前提の上で、具体的に絵を描きたいときはどうしたらいいかをお話ししたい。これは歌をやりたいとか、何か研究したいとか、そういうことにも通じると思います。
私が今絵を描くときはペン1本。多くても太めのものと合わせて2本。それと紙。
絵の具は小さい絵の具で、固形14色。私の絵は全部これを使って描いている。それと筆2本。これがあればどんな絵でも描けます。
あと筆洗。100円です。パレットも100円ショップで買いました。
ほかにマスキングに使うゴム製の液と、その液を塗るための安い筆3本、100円。
それと雑巾。空は太筆(俗にいう猫の舌)で塗ります。
一番大事なのはペンです。何か建物などを見たら、ペンでどんどん描いちゃう。ふちをたどれば絵になるんです。
建物でもリンゴでもいい。コップを描くとき、上辺の丸をまず頭に入れて紙に写すことをやると、それはさっき言った科学にのっとった知的な描き方ですから、「コメつきバッタ」になってしまいます。これだと、描けるけど、絵としては全然おもしろくない。形は正確にいくけど、気持ちが入らないのです。
コップに合わせて体を動かすようにして描くのです。体でコミュニケーションをとる。見えているようになぞる。体を緊張させてはだめ。手首で描かない。「角度をきっちり決めて描こう」という考えを捨てないとだめ。
子どもが絵を描くときは、体で描いている。描く対象と一体になるのです。体で描くのがむずかしければ、ひじで描く。単純な円を描いてみるとわかります。手首でやると、セコイ丸になる。体で描きやすくするためには、(座ってではなく)立って描くとよい。鳥が飛んできたら、(それに合わせて立ち上がり)「あっ、鳥だ」と思って描く。体を動かして描く。「乗る」というか、コミュニケートするのです。
絵を描いてみると、私たちがいかに科学的思考という既成概念にとらわれているかがわかります。音楽が鳴って、踊ろうとするとき、「これは何拍子だ」とかと考えてやるのではない。子どもは平気で体(の表現)から入っていきますよ。
絵も体を全部使って描く。描く以前に、(対象を)見るのも体で見る。単に頭で、つまり情報を得ようとして見ると、たとえば外国の名所旧蹟などを前にしたとき、圧倒されてどうしていいかわからなくなる。
パリのエッフェル塔を描くのでも、心を開いて全身で受けとめると、エッフェル塔と友達みたいになってラクになります。すると体が動き、「絵の神様」が助けてくれるような、すごい力が出る気がします。対象と「対(たい)」にならないと描けない。対象をあがめ奉ったり、逆に見下げたり、「描かせていただく」みたいな感じでは、大きなものは描けないんです。
技術だけの絵はおもしろくない
石膏デッサンが今でも続いているのは、「頭で解決する」というか、「頭で描けるようにする」という方法なんです。知的に分析して、角度や光を変えてたくさん描いていれば、技術として手が覚えてくれるという考え方です。
絵の展覧会に行くと、「上手だけど何の感動も与えない」と思える絵がよくあります。その人の人間がないというか、技術しか出ていない絵です。
歌でもそうです。クラシックの歌手が「津軽海峡雪景色」を歌ってもおもしろくない。おしゃれでも何でもそうです。そういうものだらけです。その人自身が解放されていないまま、技術や情報のみで形をととのえているのです。
みんな顔が違うように、精神生活も全部違うはずです。個性なのに、自分で気がつかなくて、くやしいまま死んでいくんです。絵は、そのことをまざまざと自分に見せてくれます。
描くのも体で描く。見るのも全身で見る。絵を描く以前に、日常を変えていったら、絵も変わります。初対面の人に会うとき、名刺をもらって、その人のバックグラウンドを見る。データ情報でしか判断できない。そうではなくて、体で見ると、何であるかがわかります。何ごともものを見るときは、リラックスすることが大切です。「テレビで言っていた」とか、「世間の流れに乗り遅れるのがこわい」といった先入観を捨てることです。自分の感性を信じ、相手を信じることです。絵は、そういう考えを変えるきっかけにするのに、とてもいい。絵を描くこと(動作)は、うるさくないし、だれも文句を言わない。私などもエジプトの砂漠でひとりで絵を描いていると、「自分はこんなところで何をやっているんだろう」と思います。リラックスするとはそういうことです。
自分の感じたものを線に出す
物を見て、それをどうやって形にするか。
丸いコーヒーカップがあったら、見て写すんじゃなくて、なぞっていくと、自然に絵になります。線をたどると、自分の性格が出る。度胸のいい人は、「ああ、わかった、わかった」とすぐ度胸のいい線を引いてしまう。慎重な人は、「ためらい傷」みたいな線がいっぱいある。何度引いても先へ進まない。
線というのは、自分の判断力の集積です。1秒の何分の1かの判断が続いて線になる。判断力、度胸、繊細さが、コーヒーカップ1つ描いただけで全て出ます。
絵を上手になろうと思わずに、自分を素直に出すことをやるといい。これをやると、自然に形が取れるようになります。
絵を描くには、「現実をコピーする」という概念を忘れること。自分が見たものを、自分の観察を線で表してみるので、現実はそのためのヒントにすぎないのです。
描き続けますと、自分は意外と繊細なんだなとか、わりと度胸がいいとか、わかるが、1年ぐらいでは、便秘していたものが出た程度です(笑)。そのぐらい、私たちの内部にはストレスがたまっている。
たとえば最初は繊細でも、100枚、200枚描くと、変わってくる。今持っている繊細さは、生きて稼いでいくために、やむなく身につけた「さが」なんです。それをまず宿便として出す。続けて数をたくさん描かなければならない。すると、ある日、フッといい絵が描ける。自分でも「いいな」と思う。「自分は天才かもしれない」と思うものが出ます。(笑)
それは子どものときから持っていたもののふたがあいたようなもの。それが目に見えてわかる。感動的です。これができてきたら、絵を描くのがやめられなくなるんです。自己発見です。
これは、きょう持ってきた絵です。(彩色されていない風景画。何枚かある)
【1つ目の絵の説明】小さいスケッチブックはいつも持っていますが、これは大きいクロッキー用紙を持っていって描いた。こうやって描いたものをオーケーにすることはあるけど、ほとんどは描いたままにしています。それをここに持ってきました。これはアマルフィ(イタリア)の風景です。ペラペラの紙に描きました。これで8〜9割終わっている。色を塗ったりするのはデザートみたいなもので、ほとんどのエネルギーはこれ(線描きの状態)で終わっているんです。
【2つ目の絵の説明】これはシエナ・ドゥオモ美術館(イタリア)の屋上で描きました。真ん中の塔を描いてから、さらに横に広げて描いていった。これを手慣らしに描いてから、あらためて水彩用紙に描くのです。
色は線をよく見せるための化粧
たとえば美術館で誰かの絵を見ると、どうしても「色」が最初に目に入ります。しかし、その絵を描いた人の本当の思いは、下書き、つまり「線」にこめられています。美術市場では油絵に価値があるが、ダ・ヴィンチでもゴッホでも、仕上がったものよりも、(その絵のために描かれた)デッサンのほうが本当は価値がある。私もどちらかをもらえるとしたら、デッサンのほうをくれと言いますね。(笑)
自分の「自然なもの」は、最初に描いたデッサンにほとんど出ます。仕上げたものは「下書きの思い」をどれだけ残せるか。美術教育でされているのは、その思いではなくて、「いかに上手に仕上げるか」という、お化粧のことばかりです。どうやって立体的に見せるかとか、きれいな色をつけるかとか、全部「お化粧」なんです。
素顔や素肌に相当するのは全てデッサンです。人の絵を見るのでも、化粧(色)に惑わされずに、素顔を見る。素顔に自信のない絵は、かならず色でごまかしています。厚化粧をしています。
絵画が映画やテレビに制覇されたのは、観る人が演出などの「化粧」にごまかされたからです。映画も、その素顔は脚本ですが、副次的な俳優とか音楽で化粧されています。皆、本質を素顔を見ずに化粧を見て信じているのです。絵を自分で描くことを通して、そうした欺まんに気づいていくことです。自分の生き方を問い直すことです。
〔質疑応答〕
問:その場でスケッチしなくてはいけないか。写真を見てスケッチすると、線が違ってくるか。
答:全然違います。僕は全部現場です。写真はいつも使わない。写真は一回二次元にしてしまいます。常に自分の目を信頼することです。
問:景色を見て描けなかったら、写真よりも記憶に頼って描いたほうがいいですか。
答:景色がすごくいいけど、暗くなってしまった(日が暮れた)とかいうことで描けないことがあります。それはその景色に対して縁がなかったと思えばいい。描いていて、ちょうどいいときに夕焼けになったりすると、景色が「描いてくれ」と言っているような感じがする。買い物でもそうでしょう。きょうブラウスを買いたいと思って、狙って行ってもだめなんです。それには、(いいものを得るには)こっちがリラックスしていないとだめです。絵でも、「ベニスへ行ったらこれを描こう」と構えるとだめです。リラックスしていれば、向こうからいいモチーフがやってきます。
問:線で表現するときに、どこまで描くべきか。どこから先を色でやるべきか。線で描き過ぎると暗くなるし、描かないと表現力が足りない。そういうことについての基準はありますか。
答:これはピカソがエッセイで書いていましたね。いつももう1人いて、「もうやめろ」と言ってくれる人がいたらどんなにいいか(笑)ということを言っています。しかし、描けるときはとことんいったほうがいいです。線でめちゃくちゃに細かく描きたいときがあります。そういうときは徹底的にいったほうがいい。時には度がすぎること、ものに狂うことも必要です。
問:さっきクロッキー用紙に描いたものを見せていただいたが、それをさらに水彩用紙に描き直すのですか。
答:はい。現場でまた新たに描きます。
※これは2003年5月4日、東京の武蔵野市立吉祥寺美術館で行われた、約200人参加による「永沢まことトークショー」の再録です。当日聴衆の一人として参加された漫画家池田達郎氏が速記し、要約してまとめたものが漫画同人誌「ぴーまん」に掲載されました。
池田氏の御好意により、ここに転載させていただくことになったものです。
|